あべあいりの悶々MON!

美味しいものをたくさん食べてすくすく育ちました。 「書いて育つ子」になるために、悶々をもっと 言葉にしていきたいと思います。ときどきポエマー。

完璧主義をやめて関係性を成熟させる

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深刻な顔つきで‪母が「さいきん物忘れが多い。若年性認知症かも」と母が言ってきた事があった。

 

だけど話を聞いたら、忘れ物なんて私の10分の1程度だった。

 

でも本人曰く「本当に思い出せない」事が悔しいらしく、どんなに注意しても忘れてしまうから、そのショックで自分を責めるらしい。

 

「そんなの、わたしは生まれてこのかた、ずっとだ」

 

と話したのは去年の夏だったかなぁ。

 

私は昔からずっと忘れ物が激しくて、何度も注意されて嫌な目にあってる。

 

どんなに頑張っても手から物は離れるし、いくら確認しても忘れてしまう。

 

本当に母が言ったようにどこに置いたか思い出せないし、後から思い出してめちゃくちゃ悔しい思いもする。そして「なんでできないんだろう。できなかったんだろう。」と自分を責める。

 

その度に「あー、またか」「しょうがないな」と自分の中で処理したとしても、他人にはそれが全く理解されない。

 

「いまママが自分に対してチクチク責めてる、そのままの言葉を、わたしはずっと受けてたんだよ。

 

忘れ物の度に、なんでできないの?と言われても、なんでできないのか自分でも分からない。そうじゃない?

 

だから、頑張ったんだけど忘れてしまったと言い訳するしかなかったんだけど。でも頑張ったら忘れないはずでしょ?と言い返されたら、何も言えなくなるじゃん?

 

そうやって、あぁ、わたしは当たり前のこともできないのか、ダメな人なのか、と自分を責める事が多くなったんだ」

 

と話したら、母は少し黙ってから「そっか。たしかにそうだね」と言ってくれた。

 

母は「ごめんなさい」と言わないし、今までのチクチク痛い言葉を誤ることはないだろうけど。

 

わたしは少し分かってくれただけでも進歩だと思った。

 

母のような完璧主義は、自分にブーメランが返ってくるだけだ。歳をとれば、完璧は砕かれるし、完璧であり続けるのは疲れる。どこかで折り合いをつけないといけないし、一度折れたら立ち直るのに時間がかかる。

 

「当たり前のことはできて当たり前」とか「人に迷惑をかけない」とか、そういう考え方自体をどこかに置いておかないと、それに縛られるし、誰かを縛ることもある。

 

そんな事を考えるのは、いわゆる「誰かの当たり前に縛られて苦労した経験のある人」だけなのかもしれない。

 

誰かの当たり前が自分の当たり前と違う時に、人はよく考えるし、良い関係を保ちたくて相手の立場に立って考えようとする。

 

出会っていくことと、体験すること、相手の立場に立ってロールプレイすることが直球型の共感力を鍛える。

 

妥協することじゃない。コミュニケーションを取って共感する事で、次のステージに上がることができる。それが関係性の成熟なんだと思う。

 

本の学校では話し合いの仕方を全く教えてくれない。

 

話し合いとは、前提条件が違う人同士が集まって、その人の言葉の背景を深め合ってお互いに共感し、最適解を見つけにいく共同作業だと思う。

 

意見をぶつけて、誰かが妥協することしか教えてくれないし、そんな話し合いしか知らない。だから想像・共感するコミュニケーションの方法を知らないのかもしれない。

 

まだ友達なら100歩譲ることはできるけど、親子間でもそんなコミュニケーションを取るしかないなんて、悲しいよなぁ。

 

「正しい」は漢字の一に止めると書くけれど。

正しいの一を決めるのは誰?親?先生?社会?

 

何が正しいのかも分からないし、100%とか絶対という言葉が使えない世の中なのに、完璧を貫くなんて、誰も期待してないはず。

 

だからそんな風に考えるよりも100のうち3でも10でも人と分け合って、色んな人と100をつくろうと協力する方が、私は幸せだと思うし、意外と周りはそんな関係性を期待しているはずだと思うよ。

 

誰かが自分の3や10を補ってくれるならば、わたしもあなたの10を助けたいと思うしね。

 

そういう依存する相互関係で生きていっても良いってことと、そう生きるためのコミュニケーションの在り方を私も母に伝えなくちゃな。

 

まあ、言葉で言って分かってくれたら良いんだけどね。笑   むずかしいのさ。笑