結婚について考えたこと
高校の時から憧れて大好きだったお姉ちゃん達(5人くらい)が30歳を迎えてから5年も経った。
30歳になりたての頃はみんな若干結婚を焦ってる感じがあり、32くらいで焦りが一旦落ち着き、33〜34くらいでみんなびっくりするくらい良い人と出会ってる。おそらく来年にはみんな結婚するだろうなーと思ってる。彼氏さんも一緒に3人で食事したりする時にいつも思うのが、2人の間のコミュニケーション量が半端ないこと。
この前経営者で2児の母から「あいり、コミュニケーションは血液だよ。そして質より量を大事にね。」と言われた。(彼氏ができたら沢山話したいなぁ)つまり、簡単なようで難しいことだと思うんだけど、みんな素敵な人と出会ってる。
そしてよく姉さん達に言われるのが「あいりもやりたいことをやっちゃうタイプだから、結婚遅くなるだろうけど、絶対に焦って結婚しちゃダメだよ」と。
何やら聞いていくと「未婚」のステータスは30を過ぎると「未熟者」として見られるらしい。
どんなに仕事が順調だとしても、結婚して家族を持つことができてないと、やっぱりどこか劣っているように見られるんだとか。
自分のやりたいことをやってきた人にとって、そんなことで未熟者と思われるのは心外にもほどがあるよなあ。
だからこそ一番はそのプレッシャーに耐えられなくなって結婚を焦るらしい。
え、こわくね?笑
恐ろしすぎる。。。笑
わたしは特に差し迫った結婚願望というのはないんだけど、漠然と「わたしの場合も結婚は大変だろうな」と思う。そもそも20代のうちに結婚するつもりはなくて、全然遅くても良い。(子どもは3人くらい欲しいけど)
けど、そういうプレッシャーと戦っていける自信が今のところない、、、
死んでしまいそう。笑
世の中の女子はただ幸せになりたくて結婚するわけじゃない。30歳になる前に結婚したがるのは、そういう大きなプレッシャーの渦に飲み込まれてしまわれないように結婚しているのだと。つまりわたしは納得してしまった。というかやっと分かった。
それでもやっぱ結婚を焦る気持ちはない。そもそも、わたしはまだまだだ。
わたしの恩師(男性)は35歳で0歳の子どもがいて(スマホの待ち受けの子)、NPOの経営者で、大学院1年生なのに、コミュニティデザイン学科で大学の先生をしている。そういうの見てるとなんか人生なんとでもなる気がして来るし、彼が大学に入学したのは23歳の時で、卒業したのは27だった。28歳の時に出会って、それ以来ずっと「あいり、俺なんか23で大学だぞ?だから大丈夫っっw」と言われ、それ以来、わたしにとっての癒し系として君臨している。
そのまた恩師は半年で社会人をやめて海外に行き、帰ってきた25歳の頃に出会った。ずっとパイロットになりたいと話していて、27歳で1年半ほど世界に旅に出かけた。29歳でパイロットになるためにカナダに行った、だけどダメで帰ってきた。その彼と前者の恩師が手がけている仕事を去年ちょっとだけ手伝ってから、わたしの価値観がガラッと変わった。たぶん彼の人間としての深みが増して、その影響をもろ受けたんだと思う。
そういう人達をみてるからやっぱり、まだまだだ。結婚はさておき、その時々の出会いをただ信じたら良いと思う。てかそれしかない。笑
ああ、やっぱ今はどう考えても結婚とか無理!!
彼氏はひっそりいてほしい!
以上、結婚について考えてみた。
「楽しい」の最大化のために、たとえばネガティブな感情を忙殺してみた
GW空けからほぼ休みがありませんでした。
ちょっと空いた時間でピクニックをしたり、海に行ったり、リフレッシュしていたけどすぐ後ろには課題があって「帰ったらまたやるか」という毎日だったなあ。
ふう〜〜〜〜。よくやった!
もちろん、できなかったこともある。例えばせっかく毎月通っている起業塾の課題が提出できていなかったり、スタートアップの授業の課題も提出できていなかったり、はたまた1限に出なくなったり。
すごく「ごめんなさい」だし、提出できないで何をやってんだと思うし、なんで今ブログ書いてんだよ!と思います。笑
でも今月はよく頑張ったと思うんです。バイトを休まないとか、人と会うとか、いつもなら課題をやるために絶対切ってしまっていた方の予定を、ちゃんと休まずこなしました。
小さい頃から提出期限を守れたことが少なくて、めちゃくちゃ人に怒られてきました。
忘れることも多いけれど、やらなかったことの方が多くて、自制心とか我慢強さとか、そういう「粘る」力がなくて、コンプレックスで、それが守れないと「人生終わった。人として最悪だ」と自分をめちゃくちゃ責めました。
実はそれがわたしの最も落ち込みやすいパターンで、できない自分や人との約束を破った自分を嫌って、自分で自分をいじめてしまう。
だから「ちょっとダメでもやりきった」ってことがわたしにとっては、大事なことなんです。それが今月はできたなぁと思う。頑張ったんだから、ちょっとダメでもまた来月頑張ろう、むしろ来月頑張るべきところが見えてきてよかったやん!と自分を励まして。笑
めちゃくちゃ小さいことかもしれないけど、弱いわたしにとっては大きなことなんです。
あと友達から教えてもらった「反省ノート」が役に立っています。
反省ノートは反省すべきことを書いて、「よし、反省書いた。書いたからこれは今日でおしまい」と自分の中に溜め続けないためのノート。
ノートこそは書いてないけど「今日は自分のここがダメだったな」ってことを夜寝る前に考えて、たとえ解決しなくても「考えたから終わり」と自分に言い聞かせて寝るようにしてる。笑
それだけでちょっと荷物が減る。「ダメな自分がいるけど、それも自分。ちょっとずつ治るさ、反省しているから」とすごく気軽に反省をするようになりました。深刻な反省は疲れてしまうし、引きずるからね。
すると朝の目覚め方が違う!
ネガティブな感情はそうやって捨てて、その日に守る人との約束をひたすら守ってきました。
約束って守りきれると、こんなに気持ちが良いんだなあ。
整理がつかなくなったら、人の力を借りて泣きついて。笑 でも次の日には回復して。。この1ヶ月はトータルすると非常に穏やかに過ごせました。
同じように来月もネガティブを捨てて、そこで生じた余剰を自分を豊かにしてくれる思考の時間に充てていきたいと思うようになったり。
でも自分との約束はなかなか守れないから、本当はもっと弱さに甘えないようになりたいけれど、それはハードルが大きいから一歩一歩やるしかない。まずはこの生活を続けることと、無理はしないことと、ちょっとだけ自分の頭で考えてみること。そこから少しずつやっていこうかな。そう思っています(^^)
完璧主義をやめて関係性を成熟させる
深刻な顔つきで母が「さいきん物忘れが多い。若年性認知症かも」と母が言ってきた事があった。
だけど話を聞いたら、忘れ物なんて私の10分の1程度だった。
でも本人曰く「本当に思い出せない」事が悔しいらしく、どんなに注意しても忘れてしまうから、そのショックで自分を責めるらしい。
「そんなの、わたしは生まれてこのかた、ずっとだ」
と話したのは去年の夏だったかなぁ。
私は昔からずっと忘れ物が激しくて、何度も注意されて嫌な目にあってる。
どんなに頑張っても手から物は離れるし、いくら確認しても忘れてしまう。
本当に母が言ったようにどこに置いたか思い出せないし、後から思い出してめちゃくちゃ悔しい思いもする。そして「なんでできないんだろう。できなかったんだろう。」と自分を責める。
その度に「あー、またか」「しょうがないな」と自分の中で処理したとしても、他人にはそれが全く理解されない。
「いまママが自分に対してチクチク責めてる、そのままの言葉を、わたしはずっと受けてたんだよ。
忘れ物の度に、なんでできないの?と言われても、なんでできないのか自分でも分からない。そうじゃない?
だから、頑張ったんだけど忘れてしまったと言い訳するしかなかったんだけど。でも頑張ったら忘れないはずでしょ?と言い返されたら、何も言えなくなるじゃん?
そうやって、あぁ、わたしは当たり前のこともできないのか、ダメな人なのか、と自分を責める事が多くなったんだ」
と話したら、母は少し黙ってから「そっか。たしかにそうだね」と言ってくれた。
母は「ごめんなさい」と言わないし、今までのチクチク痛い言葉を誤ることはないだろうけど。
わたしは少し分かってくれただけでも進歩だと思った。
母のような完璧主義は、自分にブーメランが返ってくるだけだ。歳をとれば、完璧は砕かれるし、完璧であり続けるのは疲れる。どこかで折り合いをつけないといけないし、一度折れたら立ち直るのに時間がかかる。
「当たり前のことはできて当たり前」とか「人に迷惑をかけない」とか、そういう考え方自体をどこかに置いておかないと、それに縛られるし、誰かを縛ることもある。
そんな事を考えるのは、いわゆる「誰かの当たり前に縛られて苦労した経験のある人」だけなのかもしれない。
誰かの当たり前が自分の当たり前と違う時に、人はよく考えるし、良い関係を保ちたくて相手の立場に立って考えようとする。
出会っていくことと、体験すること、相手の立場に立ってロールプレイすることが直球型の共感力を鍛える。
妥協することじゃない。コミュニケーションを取って共感する事で、次のステージに上がることができる。それが関係性の成熟なんだと思う。
日本の学校では話し合いの仕方を全く教えてくれない。
話し合いとは、前提条件が違う人同士が集まって、その人の言葉の背景を深め合ってお互いに共感し、最適解を見つけにいく共同作業だと思う。
意見をぶつけて、誰かが妥協することしか教えてくれないし、そんな話し合いしか知らない。だから想像・共感するコミュニケーションの方法を知らないのかもしれない。
まだ友達なら100歩譲ることはできるけど、親子間でもそんなコミュニケーションを取るしかないなんて、悲しいよなぁ。
「正しい」は漢字の一に止めると書くけれど。
正しいの一を決めるのは誰?親?先生?社会?
何が正しいのかも分からないし、100%とか絶対という言葉が使えない世の中なのに、完璧を貫くなんて、誰も期待してないはず。
だからそんな風に考えるよりも100のうち3でも10でも人と分け合って、色んな人と100をつくろうと協力する方が、私は幸せだと思うし、意外と周りはそんな関係性を期待しているはずだと思うよ。
誰かが自分の3や10を補ってくれるならば、わたしもあなたの10を助けたいと思うしね。
そういう依存する相互関係で生きていっても良いってことと、そう生きるためのコミュニケーションの在り方を私も母に伝えなくちゃな。
まあ、言葉で言って分かってくれたら良いんだけどね。笑 むずかしいのさ。笑