あべあいりの悶々MON!

美味しいものをたくさん食べてすくすく育ちました。 「書いて育つ子」になるために、悶々をもっと 言葉にしていきたいと思います。ときどきポエマー。

今日だけは話したい。

 

この6年間、震災の話を文章に残したことがなかったので、6年という節目に好き勝手に書こうと思い立ちました。オチもないけど話します。

 

2011年3月11日は中学の卒業式を翌日に控えた不規則な日。午前中に授業が終わり、正午頃に下校。仲間内で「学校が終わったらカラオケに行こう!」という話になっていたけれど、誰が言い出したわけでもなく「今日はいいや」という雰囲気に。カラオケは中止。当時、カラオケは海沿いにあった。

 

帰宅して1人でいるところに”あの揺れ”が来る。

 

パニックになりながら玄関までダッシュ。玄関を開けて立ち尽くしていたところ、携帯が鳴る。咄嗟に「安全を確保してから電話に出よう」と考えた。家の目の前にあった畑の真ん中に逃げ込んだ。

 

母からの電話だった。

「だいじょうぶ??」

「いま畑に逃げて、だいじょうぶ!やばいやばいやばい!家が崩れたあ!崩れた!家の瓦が崩れてる、人が近くにいて危ない。みんな外に逃げてる。でも危ない。やばい、やばい、やばい」

 

畑のど真ん中に立ち尽くしながらみた、この時の光景は映画の世界だった。

目の前で瓦屋根が崩れる、瓦が頭に当たって、人の叫び声が聞こえる、パニックでしゃがみこむ人、グラグラに揺れる電信柱、車がミニカーのように揺れる…

 

揺れが収まってすぐに、近くに住んでいるおばあさんの家に走る。おばあさんはいない。「ひなこちゃん(従姉妹)の家に行ってます」と書き置き。とにかく情報を…TVはつかない。停電。ワンセグを開く。アナウンサーも混乱。あ、写真を撮らなきゃ。デジカメで写真を撮る。父が帰ってきた。

 

「大丈夫?」

「大丈夫だけど、やばい」

 

そうしているうちに母が帰ってきた。

 

「大丈夫?」

「大丈夫だけど、やばい。おばあさんはひなこ見てる」

「行こう」

「うん。」

 

お父さんは車でどこかへ出ていって、私と母は車で従姉妹(母の妹の娘)の家にむかった。ひなこは生後2ヶ月。2011年1月生まれ。

 

従姉妹の家から海は見えない。

 

「携帯は通じない」「どうなってるんだ」「あ、車にワンセグがある!」

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わたしは仙台空港津波にのまれる姿に驚きを隠せなかった。

「え、けむりだよ!」「たぶん火事だ」「まじか」

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この時、気仙沼にも津波がきていることをワンセグで知り、おばあさんがパニックに。

「街の様子を見に行こう」と母がいう。母、おばあさん、わたしの3人で歩いて見に行く。

 

津波がここまできてる」

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「え、もう笑うしかないんだけど、嘘でしょ?」「わたし、家に帰る」おばあさんが言い出した。

 

「ダメ!!!帰る途中に下り坂があるでしょ!!今来てなくても、第2波で来るかもしれないから!絶対ダメだからね!」

「無理だ。家、心配だもの。わたしは帰るからね」

2人が喧嘩を始める。おばあさんが勝手に歩きだす。「もう死んでもしらないからね!」母が従姉妹の家に向かって歩き出す。私も母についていく。

 

(でもやっぱり、わたしが何とかしないと。)

「やっぱり、おばあさんのところ行ってくる」

「ダメ」

「いや、行ってくる」

走って追いかけた。下り坂になっているところには水はまだきてない。走る。

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おばあさんは家で仏壇を直す。「そんなの後で直そうよ。それより、なんか持っていくものないの?」「わかんない」「もう帰ろう。ひなこの家まで帰れなくなるかもしれない」「火を止めるから待って。」

 

従姉妹の家に無事に帰れた。小学校にいる弟と従姉妹達を迎えに行ったおばが「小学校はまだ子どもを返さないって。」「みんな安全なの?」「うん、大丈夫だった」「ねえ!火が!」

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「とりあえず小学生組は私に任せて」「ありがとう、お願いね。」と家族が会話を交わした。「水が止まると思うから、今出るうちにお風呂に水を貯めておいた方がいい」「電気も暖房もないから、各自家から食べ物とロウソクと暖を取れるものを持ってきて」

 

「火事、どんどんやばくなってる」「気仙沼湾で燃えてるのは分かったけど、それがどこまで来てんだ?」「すぐそこで燃えてるみたい」

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我が家の小学生達が帰ってきたのは結局18時過ぎだった。私の父を除いた家族全員が一番高台にある従姉妹の家に集まった。

 

夜が始まった。

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今まで体感したことがない、長い長い夜だった。

「火事がどのくらい近くに来るか分かんない」「すぐに逃げれた方が良いから、子ども達はスキーウェアを着て寝て」「大人は交代で寝よう。火事がどこまで来るかわかんないから。」

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わたしは全く眠れなかった。お母さんの携帯が鳴った。知らない番号。お父さんからだった。

 

津波に巻き込まれて、車を捨てて、南駅の近くのビルの屋上にいる。」

「は???馬鹿じゃないの?なんでそんなとこ行ったの?」

「そんなことより、家族はみんな無事なの?」

「無事、ひなこの家にみんないるから」

「良かった。俺の携帯は濡れて使えないから。とりあえず生きてるけど、火事がすごい。津波は大丈夫だったけど、火事で死ぬかもしれない。」

「分かった。」

「屋上には15人くらいがいて、みんなで携帯使い回すから、これで切る」

「ちゃんと無事で帰ってきなさいよ」「けん兄頑張ってよ」「生きて帰ってきてよ!」

「分かった。がんばっから!」

 

電話が切れたあと、みんなでワンセグを見た。気仙沼湾は火の海だった。

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「けん兄、たぶん無理だな」「そうだね」「でも場所が分かったから良かった」「そうだね」

 

わたしはこの時、とにかく「朝になれ!」「夢であれ!」「頼むから、わたしの友達がみんな無事であってほしい」ということしか考えられなかったと思う。

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明け方、うっすら火が見えるけど、ここまで火の手は来なかった。

 

朝になって、ちょっと近くに行ってみた。とにかくありえないニオイがした。

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探検後「パパ生きてるってよ」とお母さんが話してきた。噂が回って、町の中で歩いている姿を見た人がいると伝言ゲームのように回ってきた。

 

その日の午後。お父さんが帰ってきた。とにかく臭かった。というのも、気仙沼湾の火事は重油が流出したことによって招かれた火事だった。ヘドロには重油やら何やらがたっぷり仕込まれている。

 

とりあえず、身近な家族の無事を確認できた。

 

それからの生活はサバイバルだった。電気・ガス・水道もない。食べ物も少ない。そんな中、最も深刻だったのは、生後2ヶ月のひなこの生死だった。ストックしておいたミルクとおむつで数日は何とか過ごせることが分かった。でも、ミルクもおむつもリミットがある。

 

しかし火事は鎮火せず、震災から数日後、またしても大きな火事が起こった。

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年長、小1、小2の従姉妹たちは「お腹すいた」が口癖だった。3歳の従姉妹はお腹が空いてずっと泣いていた。大人は我慢して、小さい子にご飯を譲ったりしていた。

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数日後、救援物資をもらえることになった。しかし物資にはミルクやおむつはなく、リミットが迫っていた。家族はひなこのためにミルクを探して、色んな避難所に行った。わたしはその間、子ども達の子守役と何かあったときに冷静に判断できる人として、(何故か)家にずっといた。おば、いとこ達、おばあさん、わたしが残った。

 

ちょうどミルクは残りあと1食分となったとき、被害に合わなかったスーパーが開店した。ミルクとおむつを買うために母は開いたばかりのお店に数時間並んでいた。並んでも買えるのは1家族3つまでだった。

 

そのお店で母は、わたしの友達一家に会ったらしい。そこでミルクがないという話をしたら、友達の家は1つミルクを買ってくれた。泣きながら母はお礼を言って帰ってきた。そのミルクが手に入ってから、父の遠方の友人が車でミルクやおむつを運んできてくれたり、救援物資でも届くようになった。食べ物も潤ってきた。

 

暇な間はみんなで漫画や本を読みまくるしかなかった。

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わたしは確か漫画を沢山読んだし、本も沢山読んだ気がするけど内容やどんな漫画を読んだかも一切思い出せない。子ども達のお世話も途中からしなくなった。家のことも手伝わなくなった。

 

わたしの学区はほとんどが高台のため、仲良しの友達はみんな家が無事だった。

「公民館でボランティアしてるんだけど、あいりも来ない?」と友達が家に訪ねてきてくれた。「ごめん、わたしはいいや」「なんで?みんなやってるよ?」「いや、なんかいいや」

 

「家で毎日暇してるんだったら、ボランティア行ってきなさい」

「嫌だ」

「なんで?」

「家から出たくない。」「怖い」

 

わたしは1ヶ月近く、家から出たくなかった。出る時はほぼ車で。平地を走るときは本当にドキドキしながら移動した。

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車は2日後には通れるようになったが、私はこの写真にある緑色の橋を、歩いて渡ることが怖くてできなかった。歩いてここを渡ったのはほぼ1ヶ月後のことだった。

 

あと家を出たくない理由はもう一つ。「家や家族を亡くした知人に会った時にどうしていいか分からない」と思ったから。これが一番大きい要因だと思う。ボランティアで公民館に行くことも心苦しかったのは、どうしても「家が残ってしまった申し訳無さ」を感じて何もできないと思ったからだ。

 

わたしも大切な友人達を津波で失ってしまった。そしてその友人の家族に会った時に、どうしたら良いのか分からないと思ってしまった。そんなことが1度あっただけでも、耐えられない。だけど町に出かければ、そういう事が起こる。

 

唯一、震災から3日〜4日後に鹿折地区というところへ車で行った。ずっと「神様お願い」と手を合わせながらトンネルを抜けて、車で通れる範囲まで行った。鹿折は和太鼓の道場がある場所で、友達がその近くに多く住んでいる。たまたま歩いていた知り合いに会って、みんな無事だということを聞いた。「がんばろうね」といって別れた。

 

そして1ヶ月後、友達に手を引かれながら橋を渡った。

「大丈夫だよ!あいり!」

「大丈夫、大丈夫」

やっと渡れた。

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色んなところを見に行った。全部変わっていた。

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わたしは橋を渡ってから、1人で出歩けるようになった。10キロ先まで歩いて通ったりもした。電気・ガス・水道・インターネットも繋がると生活が一気に普通になってきた。

そのときになって、初めてサバイバルだった日々を振り返ってみた。生活するための知恵出しやモノづくりは、得意なおじ(母の弟)と弟がやった。母の妹夫妻は持ち前の明るさで面白いことをしたり、余っている材料でケーキを作ったり、みんなを明るくさせていた。その後、父も芸能人の受け入れや11年の夏に打楽器の祭りを開催するなど、活動していた。ただただ、家族に対して尊敬した。そしてみんなが無事だったことが何よりだと思った。

 

わたしは震災が起こった直後から、「この状況を元気にするのは太鼓しかない。叩けるのはわたししかいない」と思っていた。「この状況を何とかしないと、大好きな祭や地元が廃れる」と本気で思ってた。だから涙は全然流れなかった。どこかに父と同じような使命感がずっとあった。

それでも、最初の1ヶ月、2ヶ月は心も体も動かなかった。

だから父はわたしのために祭をつくったのかもしれない。わたし以外の子どもたちや音楽が好き、祭りが好きで湿っぽいのは性に合わない大人が、その日だけは全力で楽しむ日。

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こういう父の姿をみていて、わたしもやってみたいと思い始めた。震災から1年後、和太鼓ではない形で地元を良くしたいのだと活動を始める事に繋がる。

 

 

6年経って、今は震災のことを思い出すだけで泣きそうになる。

 

震災があってから数年間「家も家族も無事だった私が泣くのは申し訳ない。もっと大変な人がいるのに」と思って生きていた自分に気が付いた。

 

この6年間、色んな人に出会った。地元でも震災がなかったら一切繋がらなかった人とも繋がった。色んな人の色んな話を聞いて、何度も何度も泣いた。ボランティアに来てくれた人に対しても、何度も何度もありがとうと思っていた。だんだん、わたしは少しずつ色んな人から大変さや苦しさを分けてもらえて、人に共感することができるようになってきた。

 

ちょっとずつ、自分も震災があってから家から出られなかったことや従姉妹の命を心配していたこと、自分の心に負担をかけていたことに気付き始めた。わたしもやっぱり被災しているんだ。被災していたんだ。と思えてから申し訳無さは今はない。

 

そんなことを考えている暇があったら、この生かしてもらった命の使い方を考えようと思った。そういうことを心で受け止めて、話せるようになったのは、きっとこの3年くらいだろうと思う。

 

去年から3.11は地元に帰らないことにした。生かされ、与えられた命をちゃんと自分の心が動く方向に進めることが、私なりの恩返しなんだと思うようになったからだ。そして、震災は悲しむためのものじゃないと想い始めた。今の人生は震災がなかったら歩まなかった道だ。その人生で、いま出会っている身近な人達といたい。その人たちに出会えたことに、そのきっかけに心から感謝をしたいと思うようになった。

 

だから3.11は今のこの瞬間の幸せを感じられるところにいたい。「ここに自分が立っている」そのきっかけに感謝する日にしたい。そう思うと、自然と今送っている日常を普通に過ごすことが私の解になった。

 

でも、普通だけど、普通じゃない日、今日は1年で一番感謝する日。生きていることの全てに感謝する日。それだけは決めています。