あべあいりの悶々MON!

美味しいものをたくさん食べてすくすく育ちました。 「書いて育つ子」になるために、悶々をもっと 言葉にしていきたいと思います。ときどきポエマー。

東京という場所にめちゃくちゃ疲れた。

 

東京という場所にめちゃくちゃ疲れた。という話をします。

 

①コミュニティのない暮らし=居場所不振

田舎出身のわたしにとって、都会はとっても広い。

色んな町がカルチャーを持っていて、駅を降りればそのカルチャーを浴びに来た人間たちで溢れかえっている。日本列島を秤に乗せれば東京だけピンポイントにやけに重たく、なんだかノロノロしく感じるけれど、人が集まるところは面白いことが起こりやすい。目を輝かせて心の中で「すっげー!すっげー!めちゃんこすっげー!!」と叫びまくってた。電車に乗って色んな町に行く度に、東京が持っている顔に最初は驚きの連続だったし、とっても楽しかった。笑

 

「こんでもかっ!」ってくらい派手なファッションの人、いい歳こいて駅でイチャイチャしてる人、意味ありげな顔つきでコチラをのぞく人…ホントさまざまで「あ、ヒトってこんなに自由に生きて良いんだな!」なんて開き直って、高らかな気分になったりしたこともあった。笑

 

「なんだか生きやすそう。」だった。

 

一方で疲れちゃったなーってとき、物事を深く考えたいとき、なーんか感動したとき、迷ったとき、そんな気分の時に、町の混沌は雑すぎる。どこへ足を運んだら自分を受け入れてくれる場所があるのか?と彷徨ったけれど、入った店は自分に馴染まなかったような・・・。

 

そうして、ふと、田舎のゆるく、どっぷりした紐帯(コミュニティ)がとっても恋しくなった。

 

「おかえり!(ずっとそこにいていいよ)」と言ってくれる場所が恋しい。

居場所って別に深い関係でなくても、ずっとそこにあって、訪れたいときに、ふと立ち寄れて、どんな自分も受け止めてくれるようなとこだと思ってて。人にはいくつかの居場所が必要なはず。でも探しても見つけられないとき、苦しさを感じるしボソッと「あー、自分一人なんだ…」と思う。

 

そりゃ、どんなところにいても孤独を感じることはあるけど、「お前は孤独なんだよっ!!」と唐突に突きつけなくてもいいじゃないかっ!!!って思うんだよね。笑

 

田舎ならではのしがらみだらけの紐帯がない分、自由に生きられる。仕事が終われば、完全なるプライベートが待っている!!そうやって人生を楽しんでいる人も沢山いる。だけど会社や学校以外のところで常に自分を見てくれている存在ってほとんどいない。そう思うと、不思議と深い闇の中に、どろどろの底なし沼に静かにハマっていくように、息苦しくなっちゃうんだわ。

 

②比較と競争の社会への疲れ

「もう無理だ。疲れた。」

 

大学に入ってから人と自分をめちゃくちゃ比較するようになってしまった。そもそも負けず嫌いで、ここぞ!ってところで負けることが嫌い。大学に入ると周りがみんな優秀だから、ここぞ!って時に良い結果にならないことが多くて、その度に海に行って泣いてた。笑

 

もちろん、それは自分の成長のために必要なことだった。自分が行った努力と他人の、評価された努力を比較し、自分がその時ダメでも伸びしろを感じられていたからOKだと思う。それは意味のある比較だと思うんだ。

 

でも町や社会にのまれながら、自分を蔑んでネガティブにさせてしまうような無意味な比較によって、ずいぶん消耗していることがある。

 

たとえば、日常生活編だとインスタグラムのやっぱりあのキラキラした世界が気になってしまう。インスタの場末にいるわたしは、月に1度か2度、「良い写真が撮れた!!」つって、アップする間も幾度となく世のインスタグラマーたちはアップし続けている。なんか落ち込むし、何かを比較せざる得ない。。。自分的もその時期は吹っ切れて、全く気にしなくはなったけれど、例えばちょっと気になっている人が楽しそうにしてたら、なんかむずむずしてしまう…。(ん?)

 

それはさておき、なかでもわたしが一番落ち込みやすいのは、みんなができていること「自分はできない」とか、みんなが先に進んでいるのに「自分だけまだここだ…」とか、そういう「周りのみんなはできている」ってところから外れて、劣ってしまっていると思い込んでしまうこと。本気で落ち込み、消耗している。こればっかしはめちゃくちゃ辛い。

 

インスタはやる気になれば良い写真も撮れるし、再現もできるけど。自分の実力や能力を簡単に獲得・再現するのは難しい。「積み重ね」に差を感じて絶望して、落ち込み、終いには一元的な見方で一喜一憂している自分に腹立たしくなってくる。都会だけに限った話ではないと思うけど、少なからず、やれ就活だ、新卒だなんて言われて、ある程度競争を勝ち抜いていかないと、東京という場所ではなりたい自分になれない気がしてて。。。その反面「それだけじゃないはずだ!」と思っているんだけど…。

 

気がつくと、自分が自分に対してめちゃくちゃ高い理想を掲げていて「待って!待って!届かなくないっ?笑」という心の声を無視して、一心不乱に向き合っていることがある。でもふと気がつくと、一寸先は闇ほどの崖っぷちにいて怯んでる。笑

 

とってもかっこ悪いんだけど、わたしにはそういうところがある。(めっちゃある)

そしてとっても苦しい。(めっちゃ苦しい)

 

だからなのか、ここさいきんのわたしの口癖は「もう無理だ。疲れた。」だ。

 

③停滞したエネルギーは東京では治しづらい

結論です。わたしは東京という場所にめちゃくちゃ疲れた。

 

実は住んでいるのは神奈川で、しかも江ノ島に近いとはいえ。寝に帰るようなもん。

毎日電車に揺られ、さまざまなヒト・モノ・コトに揺さぶられて膨大な情報量のなかを通り抜けなくちゃいけない。退屈をすることはないけど、疲れるとエネルギーが停滞して落ち込みやすい。人と比べ、頑張る気概を失くし、なんだか孤独を感じ、彷徨うけれど居場所もない。(やべえ)

「寂しさ」らしい寂しさも感じたことはなかったのに、大人になったからか、そういう感情も覚えた。

 

そしたら一気にキタ。ドバーッと。蓄積されてきた土石流が流れてきて、そしたらなんと眠れなくなるわ、涙は出るわ、体調は崩すわ、すごいことになっている。びっくり。

 

ところが夏休みに入って地元に帰ったとき、体力はないにせよ、よく眠れたし、人と話すことも苦じゃなかったし、誰かと自分を比較することもなかった。どこへ行っても誰かが置き去りになることもなかったし、「あーこれこれ」っていう気がして仕方なかった。よく笑ったし、よく考えられたし、よく食べた。笑

 

「どこかに行けば、誰かがいる。」久々に安心できたなぁ。

 

10日間ほど滞在して東京に戻ってきたとき「わたしは、ここで消耗されてたのか」と完璧に実感した。特定の何かが大きく影響していたわけでなく、多くの何かが複雑に作用して、エネルギーを消耗し、停滞させ、元通りにしてくれないってことに気がついた。正直言って、本当に辛い。自分が辛いってことを上手く人に説明できなくて、すげー悔しい。でもとにかく辛いんだ!!!

 

今もどうにか這うようにして、人に頼って迷惑をかけながら七転八倒する日々。そろそろ、こういうゲーム、終わりにしたい。と切実に思ってる。。。

 

何もかも自分次第だけど(わかってるよ!)東京という場所に居ては治るものも治らない気がしてる。わたしはそう密かに思ってる。

【続】SOKOAGE CAMP自分と向き合うってどういうことだったっけ?

 

こんにちは。

ほんの少し語彙力がでてきて、気が抜けている感じの素直な文章が書けるようになって、いろいろ書くのが楽しみだな〜と感じている、阿部です。

 

先日のSOKOAGE CAMPの話の続き、書いてみようかな。

 

今回は「自分と向き合う」ってどんなことだったっけ?というお話。

 

そもそも「自分と向き合う」ってなんなんでしょうか?考えてみて下さい。そもそも自分と向き合うなんて物理的に不可能ですよね。笑

 

いま、自分が感じている「つまづき」や「生きづらさ」など色々あると思いますが、嫌なことがあっても残念ながら自分は自分から抜け出すことはできません。だから辛さも痛みも苦しさも、自分にやってきた出来事は全部自分で背負うことしかできません。

 

そんな中うまいこと、なんとか、生きる方法を探る(人生をサバイブする)ために、、

自分と物理的に向き合うことは不可能でも、人類は"鏡"をつかって自分を映し出すことで方法を見つけました。「鏡を使うこと」これが「自分と向き合う」だとわたしは思います。

 

"鏡"の比喩を解いてみるとわたし的には、"これまでの人生"と"いまの頭の中"のプロットに尽きるかな、と思います。

 

鏡の前に立ったときに映るのは、過去でも未来でもなく今の自分です。今の自分はこれまでの時が積み重なった自分ですから、それらを映し出す作業をSOKOAGE CAMPの前半で行います。

 

さすがに内容を書いてしまうのはギリギリアウトだと思うので、書けませんが、かなり時間を取って、自分のこれまでの人生やその時に抱いた感情を整理していく作業をしていきます。さらに模造紙に大きくプロットしていきます。

 

その鏡をみていったり、人と話していくうちに、いま生じている生きづらさの正体が少しずつ分かってくるんだと思います。

 

それに気がつくまでの過程に頭を悩ませたり、混乱したり、泣いたり、笑ったりがあって、喜怒哀楽の激しい一週間を過ごしていきます。

 

 

その姿をみてて自分はちゃんと自分と向き合っているんだっけ?なんて思ってきちゃいました。あらら、そういえば逃げてばかりだし、ときどきそういう時間は設けるけど、本当にたまに。だから、考えが継続しないし内言の語彙が生まれ変わる事もない。じゃあ、意味がない。

 

あー、わたしにもSOKOAGE CAMP必要だなぁ。というか、定期的に必要だなぁと思いました。ちなみにCAMPは合宿後も続きます。その後1年間はスタッフが定点観測してくれるので、その都度自分と向き合う時間が取れます。(いーなー!!)

 

わたしは高校時代の方がずっと自分と向き合っていたような気がします。授業中、先生の話も聞かずにノートに自分の頭の中を書いていました。そこから自分のその後の行動が広がっていく感覚を持っていました。

 

大学に入学してみると、授業はそこそこにPCの画面を見続けて、SNSやWebコンテンツに時間を消耗する毎日です。自分の人生の時間を物事のユーザーとして過ごしすぎて、つくり手としての時間をずいぶん失っている気がします。まだ高校生の時はそんなことなかったよな、SNSも好きだったけど、それ以上に毎日変化があった楽しかったよな、なんて思っちゃっている時点で良くないですね。

 

鏡には今、いまの自分しか写りませんし、それを嫌でも見ていくしかありません。変えたい自分は今の自分です。SOKOAGE CAMPはこれまで自分と向き合った経験がなく「なんか人生つまんない気がしているんだけど、どう悩んだらいいのか分からない」とか「自分のことが好きになれない」とか、そういう漠然とした悩みに向き合ったり、「じゃあ、どうする?」を具体的に落とし込む機会になるのではないかと思っています。

 

とはいえ、たかが1週間、自分と向き合ったところで何か劇的に変わるわけではないこともあります。(劇的に変わる人もいます)落胆するかもしれませんが、正直それはその人の感度が鈍いだけだと思います。1週間自分と向き合えば何かしらの「問い」とゲットできるはずです。その「問い」を持ち帰ることができただけでも、相当羨ましいことです。「問い」が振ってくる瞬間はおおよそ、本を読んだり、人の話を聞いたり、ぼーっとしているときにふと、だったり”ちょっと考え事をした先”にある気がしています。

 

普段から考えることがない人にとって、「問い」が振ってくる、「問い」を投げられることは貴重な機会だと思います。「問い」を持ち帰り、考え続けることができているって幸せな状態です!

 

たとえば近頃食べすぎちゃったよってときに「怖くて体重計に乗れないっ!」みたいなことと一緒で、目の前で何かしら不具合が起きているときに、人って意外と自分自身と向き合えきれてない。もし、そういう危機感がある人には少し自分をいつもとは違う環境においてみることをオススメしてみたいです。

 

自分と向き合うってどういうことだったっけ?という問いをちょっと考えてみました。鏡に写った自分を、わたしもちゃんと見つめなければな!!喜ばしいことも、がっかりすることもあるけれど、残念ながら自分は自分から抜け出せないからなっ!はっ、はっ、はっ!

 

それでは、またね。

 

 

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SOKOAGE CAMPは別名インスタキャンプなんじゃないか?ってくらいの好立地、好インスタな合宿。 

 

 

 

 

SOKOAGE CAMPがつくりだす屈強なコミュニティ

 

こんにちは、あべあいりです。

 

8月頭にちょこっとだけお手伝いさせていただいた「SOKOAGE CAMP」について、なんか語ってみたいなーって思っちゃったので書いてみます。

 

認定NPO法人底上げとわたしの出会いは遡ること”もう”6年前です。

宮城県気仙沼市出身のわたしの地元は震災の影響で酷い状況になってしまって、底上げはその時気仙沼にボランティアに来ていた若者3人が立ち上げたNPOです。

 

底上げに出会ったことで、わたしの人生はコペルニクス的転回をむかえたのだが、今回はわたしの体験ではなく、CAMPに参加した大学生達を客観的にみていて感じたコミュニティの心強さと、自分と向き合うってどんなことだったっけ?という話をしたいなー。

 

そもそもわたしのFacebookの投稿からCAMPに参加したい!という友達が多くいて、実際にこれまでも何人か、参加してくれてるんだけど。

当の本人(わたし)はCAMPに参加したことがないので、どんな人に向けて、何を発信したら良いのか分からないと思ったことと、そもそも底上げ流の「自分と向き合う」ってどんなプログラムなんだろう、、、と思ったことが発端です。要はちょっとCAMPを見学して雰囲気を感じてみたいなーと思ったんですね。

 

ちょっとお願いすれば、スッと入れてくれるんだろうと思っていたんだけども。底上げと家族同然のような付き合いをしているわたしでも「安心・安全な場をつくることにコミットしたいから見学とか断っているんだよねー」とのこと。

 

ほほう。なんだか、ただごとじゃなさそうだ。笑

とはいえ、夏休みの帰省中はとってもヒマだったので、ならば手伝いがてらプログラムをのぞくということで見学(というかお手伝い)をしてきました。

 

ここでプログラム内容を語るというのは、ちょっとアレだし、正直そんなのどうでも良くて、プログラムよりも最終的にみんながみんなをすごく好きになっている奇跡のような環境?仲間意識?いや、家族意識?のようなものが醸成されたことに驚き。(桃の木)”それ”について考えてみるね。

 

初めて会った同年代くらいの10人と1週間寝食を共にしながらの暮らし(それがSOKOAGE CAMP)たしかに仲良くはなるだろうけど、そんなもんじゃない。なんならみんな感極まって?FBに感想を書きなぐっているし「自分の感覚にしたがって、旅します!」発言多発しているし、メッセンジャーグループは未だ毎日のように連絡が飛び交っている。笑

 

わたしも人生に迷いまくっていた時そういう合宿に参加していたけど、仲間やメンターとそこまでの仲になれていたのかは疑問だし、そもそも合宿後、本当に良くなかったらFBに感想なんて書き込まなかった(気がする)(ごめんなさい)

 

だから彼女・彼らにとって、CAMP自体や底上げやキャンパー達との出会いは大きいことなんだろうな〜と思っています。どんな空間だったかは、一緒に語り合ってくれた仲間やスタッフ、ご飯をつくってくれた人や地元の人、廃校になったけどすごく味のある小学校校舎とか、キャンパー達は色んなところに対して感謝していたな〜と思う。というか、そういうところにまで反応できるくらい感度が高くなっていたと思う。

 

それはきっと企業秘密のプログラムの効果だと思うし、なにより底上げのスタッフが発揮できる良い雰囲気ビームだと思う。良い雰囲気ビームによって、わたしも高校時代すごく良い雰囲気の中で大親友と呼べる仲間と宝石のようなキラキラした日々を過ごした。

 

(全く核心に迫れてないけど)そのコミュニティがこれからキャンパー達が自分に向き合うとか、行動を起こすとか言った時に心の支えになってくれるような場所であり、疲れたら帰ってくる場所になるんだと思う。

 

わたしを含め、わたしの周り(特にSFC生)は自分を高めてくれる人、辛い時に頼れる人(素敵な大人に限る)がいるって人は多いと思う。(もちろんみんなじゃないけどね)それは社会的にすごく恵まれていることで当たり前ではない。むしろ、そういう大人や仲間に出会えることの方が稀ですよね。そんな人にとって、このSOKOAGE CAMPという場は高めてくれる場所であり、安心できる場所になっている。

 

今回のキャンプには高1から知ってる大学の後輩が参加したんだけど、とっても安心仕切っている表情と笑顔があって「あー、こんな顔するんだな〜」とかちょっと思ったりして。笑(わたし何者?)

底上げの周りが誰か(多くのみんな)にとっての居場所になっているのは、キャンパーたちも私達も同じなんだなーと思った次第。これ、とっても不思議な現象なんです。そのコミュニティが、コミュニティとして成長していけば、また色んなところに飛べる。人生って半分くらいは他力で押し上げられているんじゃないかと時々思うけど。まさに「ここから」というステージにいる人たちが奇跡的に集まれた時って、その後ずっと続いていく繋がりになるんだと私も経験から実感しています。

 

本当に「ここから」の繋がり、繋がった繋がりを大切に大切にして欲しいなあ。そんな心強いコミュニティを自分達の手でつくっていく気概で、気運で、高め合い受け入れ合っていけるところになって欲しいなあ。(という願い)(あれ、いつの間にか願っちゃった)そんな風に思いました。

 

さて、次に(ごめん次行くで!)「自分と向き合う」について書いてみたいんだけど、もう体力がないので、自分と向き合うってどういうことなんだっけ?という話はまた今度にしておきます!

 

それでは、またね。

 

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 キャンプ中こんな貼り紙を見た。